平成17年10月豊橋美術博物館で築城500年祈念展「吉田城と城下町」という催しがあり、その中の資料展示品に江戸時代の吉田宿職人表が出ていたのでお知らせします。豊橋は、江戸時代吉田と呼ばれ、さらにそれ以前は今橋と称していました。江戸日本橋から数えて34番目にあたり、城下町、宿場町、湊町として繁栄しました。永正2年(1505)牧野古白による今橋城築城から始まり徳川時代の約265年間、9家22代の譜代大名が配されました。この時代の生活の様子はわかりませんが、和縫(裁縫)は女性にとって嫁入りの資格でもあったので、母親、祖母に習うとか、町の縫寺子屋に通って修得しました。江戸(東京)では女性の裁縫師は、武家屋敷では「お物師」一般の町家では「針妙」吉原の遊女屋では「お針」と所によって呼び名が変わりますが、各々雇われて針仕事をしていました。一方仕立物師といわれているのは男職人のことで、着物、羽織、袴、帯、蒲団などを仕立て、これを男仕立てといい仕立屋の多くは呉服屋を得意先として仕事をしていたようです。展示資料(吉田宿職人一覧表)によれば、正徳2年(1712)徳川6代将軍家宣の頃、吉田宿の人口、7219人(男3720人、女3499人)で仕立物師は5人、寛延3年(1750)5人、享和2年(1802)9人とあり呉服商は2軒となっています。