針子塚とは、針子たちが主体となり、裁縫師匠への感謝報恩のため建立したお墓や顕彰碑、像などを指します。三河地方では西平野部を中心に分布し、現在では豊川地域内で四事例確認できます。一例として小坂井町に所在する西蔵寺の針子塚は、明治20年に建立され、墓石「針子中」と刻まれています。この墓に眠るのは、住職の宮原暢明と坊守(ぼうもり:浄土真宗の僧の妻のこと)宮原菊代で、住職が寺子屋を、坊守が裁縫を教えていたと考えられます。当時、寺子屋での「裁縫塾」の師弟関係は深いものであったと思われます。
江戸時代、裁縫の習得は女性にとって必須のたしなみでした。このような意識は明治時代になっても変わらず、近代学校制度が整えられていく過程で、女子の就学率を上げるために学校に裁縫科を設置する施策が行われました。
豊川民族資料館「昔なつかしいお針の習い」資料展より